競争心が強い人ほど自分の人生を生きられない理由

競争心があることは良いことだ。
競争に勝つことは良いことだ。

現在でも多くの人たちが、このような価値観に縛られています。とくに団塊世代からバルブ世代までの人たちは、このような価値観を現在も強く持っていると感じます。

学生時代から始まる競争心の醸成

一般的に、公立でも中学生になると、テストの成績で学年順位をつけられるようになります。

順位をつけられると、人は自然と競争心がかき立てられます。テストの点がよく、学年順位が上位であればあるほど親は喜び、先生からも褒められます。

中学生というのは、まだまだ自我が未成熟ですから、親や先生からそのような扱いを受けると、自分はこれでいいんだと考え、疑うことをしなくなります。

そして、そのような競争は高校・大学と続き、一昔前なら、いい大学を出れば、待遇の良い企業に高い確率で就職することができたのです。

会社に入れば入ったで、今度は出世競争というものがあります。中学・高校・大学と10年間もそのような競争が続けば、本人はそれが普通の感覚になります。

競争に勝てば、周囲から賞賛され給与もあがるとなれば、「自分は正しいことをしている」といった思い込みはますます強化されます。

自分が正しいのですから、自分を省みることもしなくなっていきます。

なまじ成功体験があるため、競争は良いこと、勝つことは良いことといった思い込みは、しだいに彼らの中で絶対的な価値観となっていくのです。

無意識に強制される主体性なき生き方

ところが、私は社会にでてからあることに気づきます。

それは、競争心の強い人ほど他人に操られ、自分の人生を歩めていないという現実です。

なぜこのようなことになるのでしょうか?

それは彼らの人生に主体性というものがないからです。

団塊世代やバブル世代といった、今の中高年世代が若いころ、日本はいわゆる大競争時代でした。自分が望むと望まざるとに関わらず、ほとんどの人が強制的に競争に参加せざるをえない状況だったのです。

嫌でも競争に参加しなければならない状態だと、人は自分を納得させるため「人生とはこういうものなんだ」と、それ以上の思考を停止し諦めの境地に入ります。

それが何年も続けば、自分が本当に何を望んでいたのかさえ忘れてしまうのです。

そうなると、たとえ自分の意思とは違った方向に歩まされていたとしても、自分の意思で自分の人生を歩んでいると錯覚するようになります。いや、錯覚せざるをえないのでしょう。

そして、しだいに自分の意思をなくしてしまうのです。
最終的には、自分が本当は何がしたいのか、どういう生き方をしたいのか、
といった人生の根幹まで失ってしまうのです。

学生時代は親や先生のいうことをきき、会社に入れば上司の指示に従う。従来の組織においては、人のいうことをよくきく人がいい人ですから、自分の意思など入り込む余地もなかったのでしょう。

長年、人に生き方を強制されてきた人間に主体性など育つはずがありません。

だから、そのような人たちの多くは、社会的地位がどれだけ上がっても自分に自信が持てないのです。今のサラリーマン社会に、自信のない中高年が蔓延してしまったのは、このような理由があるからなのです。

そう考えると、競争というものがいかに主体性を損なうものであるかがわかるでしょう。

そもそも競争というもの自体、他人がいないと成り立ちません。他人を常に意識し、他人より上か下かといったことを競う行為には、自分の意思が入り込む余地はありません。だから競争心の強い人ほど自分の人生を歩めなくなるのです。

他人に振り回される人たち

いくつか例をあげてみましょう。私が若いころ、中高年の人たちはしばしばこう言っていました。「他人よりいい生活がしたい」まさに内にある競争心が現れた言葉です。

そして職場で同僚が家を買ったという話を聞けば、「あいつが3500万の家を買ったのなら、俺は4000万の家を買う」などという意味のない行為に走ってしまうのです。

このような人たちには、核となる自分の基準というものがありません。かりに基準というものがあっても、競争心が強すぎるため、他人との競争を自分の基準より優先してしまうのです。

他にも、「アイツがBMWを買ったから、俺はベンツを買う」、自分はA大学に行くつもりだったのに、同じレベルの友達が1ランク上の大学を受験すると知り、「俺はアイツより上の大学を受ける」と言いだしたりします。

このような意味のない行為を、私はこれまでの人生で幾度となく目にしました。結局は皆、他人に振り回されているのです。

上には上がいる

このような思考回路になってしまった人たちは、競争の無間地獄に落ちてしまいます。

何事においても自分より上か下かばかり気にするようになり、常に他人の動向に目を光らせます。そして、どうすれば他人より優位に立てるのかといったことばかり考えるようになるのです。

そこに自分の意思はなく、自分が望む生き方とかけ離れていくことにも気づきません。自分がしたかったことと違うことをしているのですから、本人に満足感もありません。

ところが、何事にも上には上がいます。どんなに努力しても勝てない相手というのは世の中に存在します。どんなに努力しようとも、自分がしたくない競争をしている人には、自分が好きでやっている人に勝つことはできないからです。

そうなると、勝てないと悟った人は、今度は相手を嫉み、相手の足を引っ張るようになるのです。とくに、今の日本の歴史ある企業において、このような行為が頻繁に見られます。これはどう考えても正しい姿ではありません。

狂争に駆り立てられないために

だから私は世の中の多くの競争は、まさに狂争ではないかと思うのです。

たしかに、他人と競争をすることで、以前の自分より高い能力を獲得できることはあります。ですから、私も競争というものをすべて否定するわけではありません。

私がダメだと思うのは主体性のない競争です。とにかく競争することが善、勝利することが善、といったステレオタイプの思い込みです。

世の中には、する必要のある競争とする必要のない競争があります。また、程度の低い競争もあるのです。それを自分の意思で取捨選択し、自分が必要ないと感じた競争には参加しない勇気を持つことが必要なのです。

とにかく、「他人がしているから自分もしなければならない」といった、思い込みは捨てることです。さもないと、知らず知らずのうち、狂争の渦に飲み込まれ、他人に強制される人生を送ることになってしまいます。

今後、主体性のない人、自分の意思のない人は無価値な人間として扱われることになるでしょう。そうならないためにも、競争というものの性質を理解し、自分で取捨選択していかなければならないのです。