勝ち負けはただの手段

「勝利こそが善」

昨今の日本においても、「勝つことこそが良いことだ」と考えている人が多数派ではないでしょうか? しかし、私は勝つことが必ずしも最良だとは思いません。

なぜなら、勝ち負けというのは、なにかの目的を達成するための手段でしかないからです。勝ち負けが手段なら、ときには負けることがより良い選択肢であることに気づくことができます。

勝ち負けを手段ととらえることができれば、ただの一度負けたくらいで、そう落ち込むこともありません。

ところが、勝つことだけが目的になっている人は、負けることへの不安感や恐怖心が人一倍強くなっているように感じます。

負けることが死とはほど遠い現代、はたしてそこまで勝ちにこだわる必要があるのでしょうか? その勝ちになにか目的はあるのでしょうか?

もし、勝利することに目的がなければ、私はその勝利に大した意味はないと思うのです。

植え付けられた勝負観

あなたは勝つことが良いことだと思っていますか? もし、あなたがそう思っているなら、一呼吸おいて、その考えが本当に自分の物かどうか考えてみる必要があります。

今の世の中を見渡してみると、勝利することが善というものばかりです。テレビや雑誌、漫画やアニメ、映画もそうですね。

それだけでなく、周囲の人たちも勝てば喜び、負ければ落胆する人がほとんどです。子供のころから、そういったものばかり見ていると、普通はそれが当たり前なんだと自然と思い込むようになります。

実は、そうした当たり前のことほど、一度は意識して疑ってみる必要があるのです。なぜなら、そうした思い込みが自分を苦しめることはよくあることだからです。

さしたる目的もないのに、勝つことにばかり意識がいってしまうと、人はする必要のない勝負にまで駆り立てられることになります。

その勝負事が自分の適性にあっていればまだいいのですが、自分に適正がなければ、まず負けることになるでしょう。そして、負ければ落ち込んだり、相手に対する嫉妬の炎が燃え上がったりします。

目的もない勝負の勝ち負けで、いちいち精神をすり減らしていては、長い人生身が持ちません。そんなときは「この勝負は本当に自分に必要だったのか?」と、冷静になって自分の胸に聞いてみて下さい。

それがあなたに必要でない勝負なら、勝ち負けにこだわることが無意味だとわかるはずです。

ときには負けることも目的達成の手段になる

そうはいっても、「負けることで良いことなど本当にあるの?」と考える人もいるかもしれません。なので、ここではいくつか例を挙げてみましょう。

負けることで相手に花を持たせる

ある日、サラリーマンのあなたは、新規に取引を始めたお客さんにゴルフ接待をすることになりました。

その相手は客先企業の重役です。その重役の最初の1、2打を見てあなたは思います。「う~ん、この調子だと自分が圧勝しそうだな・・・」そこであなたは考えます。「この会社とは付き合いも長くなりそうだし、ここは手加減して、今日はいい思いをして帰ってもらおう」

あなたは手加減していることがわからないよう、うまく調整して僅差でお客さんに負けました。「いやぁ、いい勝負だったね」重役は満足げに言います。

「もう少しで勝てると思ったのですが、今日のところは参りました」あなたは応えます。この日の接待が功を奏して、それからの取引はとても円滑に進むようになったのです。

なにやら例えが古いような感じもしますが、一昔前ならこういうことはよくあったと思います。今でも、このような接待をする会社も残っているでしょう。

ここでの目的は、負けることで相手に花を持たせ、以後の取引を円滑に進めることです。もちろん、手加減されることを嫌うストイックな人もいますので、そこのところは相手の性格を見極めなければなりませんが。

戦国武将にみる負けの使い道

そのほかにも、戦国時代には相手の兵力を把握するため、小隊を編制し、相手の大隊にぶつけるということも行われていました。

当然、勝つことはできませんが、相手の戦法や兵隊の数、地形など、重要な情報を逃げ帰った兵士から手に入れることができます。その情報をもとに、相手の兵力を分析・予測して、こちらの戦略や戦術を組み立て、総力戦で勝ちに繋げることも可能になるのです。

また、いい加減な戦い方をして、一度は相手を油断させ、相手が油断したところで一気にたたみかける、といったやり方もありますね。

なんにせよ、勝ち負けよりも、まずは目的をハッキリさせることが重要なのです。目的がまず最初にあって、そこで勝つべきか、負けるべきかを判断するのが古今東西、名将と呼ばれた人たちの思考法なのです。

なぜなら、彼らは100戦100勝など現実的に不可能だとわかっているからです。もし、勝つべきだと判断しても勝てないことも少なくありません。そんなときは、将来のことを考え、次の勝ちに繋がるような負け方をするのです。

これは現代の私たちにも当てはまることではないでしょうか?

2位じゃダメなんでしょうか?

最後に、某国会議員の発言に触れて終わりにしたいと思います。もうずいぶんと前になりますが、二重国籍の某女性議員が「2番じゃダメなんでしょうか?」と発言したことがありました。

この発言は物議を醸しましたが、当時、テレビでその姿を見た私も「この人、なにもわかってないなぁ~」とあっけに取られながら見ていました。

私もエンジニアの端くれですから、技術に関する話題には多少敏感に反応してしまうところがあります。このときの発言の元となったのは、日本のスーパーコンピューター京に関するものでした。

私は、日本は今後も技術立国として発展していくのが最良の道だと考えています。

それを考えた場合、2位よりも1位のほうが圧倒的に世界に対する存在感が高まります。同時に、それは日本の国益にも繋がるのです。

一般的にビジネスの世界では、業界1位と2位の差というのは埋めることが非常に難しいのです。1位と2位の売り上げの差は、2倍どころか3倍、4倍といったことも珍しくありません。

なぜなら、どこの業界でも客側は2位の会社の製品より、1位の会社の製品を使いたいと考えるからです。それは受注量の差となって現れます。1位と2位の会社では、受注量に2倍以上の差があることは普通にあります。

1位の会社の受注力が圧倒的ということは、1位の会社はその製品の市場価格に決定権をもつことができるようになるということです。市場価格をある程度自由に決められるのですから、自分たちの製品の価格を上げたり下げたりすることで、競合他社の利益をコントロールすることも可能になります。

2位以下の会社は、1位の会社が決めた価格に嫌でもついていかなければならなため、苦しい戦いを強いられます。そのため、2位以下の会社が1位の会社を追い抜くことは非常に難しくなるのです。

話をスパコンに戻すと、スパコンなどはある意味、国家の威信をかけている事業分野だといえます。そのスパコンが世界一となれば、スパコンを開発した会社の製品のみならず、それらに関連した分野、すべての製品の信頼度を裏づけることになります。

当然、日本という国家の信頼にも繋がるでしょう。だからこそ、こういったケースでは絶対に1位を目指す必要があるのです。

それを、まがりなりにも日本の国会議員が「2位でよい」と発言をするなど、国益を無視しているとしか言いようがありません。これこそが、まさに目的のある手段としての勝利だからです。