MBAで見た秀才たちの弱点

私が34歳のとき、ふとMBAでも取ってみようかと思い、某社会人大学院に入学したことがあります。

そこはビジネス界隈では有名な大学院でしたから、入学してくる生徒はほとんどが医者や税理士、有名企業の幹部、会社経営者などそうそうたるメンツです。

当然、学歴も8割以上が日本でも中堅以上の大学卒で、早慶、MARCHは当たり前、東大や京大の人も何人かいました。

当時は、「よくもまあ私のような人間が、こんなところに入学できたものだ」と思ったものです。

入学試験は論文と面接だったので、ある程度の文章力と考え方、そして学費の支払い能力があれば入学できたのでしょう。

一般の大学とは違って、ビジネス大学院ですから、たまには異質な人も入れてみようという思惑もあったのかもしれません。

今回は、そこで私が感じた学歴秀才たちの弱点について書いてみます。

知識量は圧倒的、だが・・・

授業が始まった当初、私は彼らの知識量に圧倒されました。彼らは日頃から勉強熱心なようで、とにかく色んなことを知っていました。

ですから、「これはついてくのが大変そうだ」と、そのとき私は感じたのです。ところが、二週間が過ぎたころ、私はあることに気づきます。それは、「みんなの主張がとてもよく似ている」ということでした。

彼らの論調は何やら教科書的で、明らかに自分の言葉ではないような印象を受けたのです。他にも、実体験の話が非常に少ない、論調に奥行きがない、既存の知識をただ並べ替えただけ、そのような印象を持ちました。

とくに、実体験から湧いてくるような、具体的でその場の状況を想像できる臨場感のある話がないのです。

たまに、実体験の話をしたとしても、まず表現が教科書的で話に引き込まれませんし、あまり突っ込んだ内容の話もありませんでした。

それからも、私は彼らの観察を続けました。そして私は、彼らに次のような特徴があると感じたのです。

 本に書かれた内容や権威ある論文が真実だと考えている
 知識を得ることに時間を使いすぎて実体験が不足している
 知識偏重のせいで応用力がない

知識量と思考力は必ずしも一致しない

彼らの知識量は私に比べると圧倒的なのに、なぜこんな表面的な話ばかりになるのだろう?

私はそう考えたとき、一つの結論にたどり着きます。「彼らは持っている情報量が少ないのでは?」そのときの私は、社会人経験が10年以上ありましたから、その経験から本当の頭の良さについて自分なりの定義がありました。

それは、「本当の頭の良さとは、記憶力ではなく応用力である」ということです。

ただ、物事を記憶して、それと同じことを言うだけなら誰にだってできます。

かつて、福沢諭吉はこう言いました。「ただの知識の問屋でいい飯は食えない」と。問屋というのは、生産者から商品を仕入れて、その商品を小売店に売るのが仕事です。記憶した知識を、そのままオウム返しに他の人に伝えることです。

それでは、本当に物事を考えているとはいえません。

応用力とは、記憶した知識を現実でどれだけ活かせるかということです。現実で知識を活かすためには、それだけ多くの実体験を積まなければなりません。

たくさんの実体験の裏付けがあってこそ、はじめて知識というものが活きてくるのです。つまり、応用力があることこそが、本物の思考力があるということであり、それこそが本当の頭の良さなのです。

本当に自分の頭で考える力があるなら、答えなど探す必要はありません。自分で答えを創り出すことができるからです。

ところが昨今の秀才たちは、何か問題が起これば、すぐ本やネットの情報、あるいは他人に相談することで、答えを見つけようとするのです。

しかし、それは他人が先に答えを出していないと、何もできないということでもあります。べつの表現をするなら、それは常に他人の後塵を拝するということなのです。

欧米の本や論文ばかりを尊重する情けない風潮

ここ何年も前から、ほかにも私が感じていることがあります。最近の日本では、書籍にしろネットの情報にしろ、外国の研究論文をベースにしたものが非常に多いということです。

本を読んでも論文の引用ばかり、ネットの情報も欧米の研究者の引用がとにかく目立ちます。しかも、それらの発信者が皆そろって高学歴なのです。

そこに自分オリジナルの主張があればまだいいのですが、大抵の場合、本人の主張は取ってつけたような薄い内容しかありません。これは、実践を重視する人が読めばすぐにわかることです。

そもそも、欧米の論文でも20年後に残っているのは1割程度しかないという現実を知っておかなければなりません。

残っている1割とは、その論文の結論に妥当性がある、正しいというものです。あとの9割の論文は、20年後には結論が間違っていたと判断されているのです。

たしかに、他者の引用でもそれが自分にとって有用な情報であれば、そこに一定の価値があることは認めます。

ですが、私は「他人の褌で相撲を取るようなことばかりで本当にいいのか?」と思うのです。

極端な話、もし戦争のような状態になって、本も読めない、ネットも使えない、となったらどうするのでしょうか?

いつも他人の情報をアテにしていた人たちは、恐らく生きてはいけないのではないでしょうか?

そう考えると、今のように欧米の本や論文ばかりアテにする風潮はいかがなものかと思います。

バブルが崩壊してからというもの、日本はビジネスにおいて外国にやられっぱなしの現状がそれを物語っています。

日本の教育レベルは世界でも屈指であるはずなのに、平成30年間の経済はほぼ右肩下がりでした。

頭がいい人が多いはずなのに、なぜこんなことになるのでしょうか?

かつて、名宰相といわれた田中角栄は小学校しか出ていませんでした。それでも日本人を豊かにできたのです。彼よりもたくさん勉強をして、知識は十分にある人たちになぜそれができないのか?

それを考えたとき、私は彼らに本物の思考力がないからだと思わざるをえないのです。

権威を疑わない危うさ

最後にもう一つ、私が気づいた高学歴の人たちによく見られる傾向について書いておきます。

多くの高学歴者に見られる傾向とは、「自分よりさらに高学歴の人たちのいうことを鵜呑みにしやすい」ということです。

自分より下の大学を出た人たちのことはすぐ疑うわりに、自分より高学歴の人たちのいうことはあっさりと信じるのです。

有名人や権力者のいうことも同様です。とにかく彼らは権威に弱いのです。私はこれまで何度もそういう場面に遭遇しましたが、あれについてはどうかと思います。

どんなに頭が良かろうが、人間である以上、盲点や間違いはつきものです。そればかりか、世の中には、自分の権威を利用して意図的に間違った情報を流す輩もいるのです。

いくら権威があるからといっても、それを無条件に信じることは、今の世の中、危険としか言いようがありません。

もちろん、高学歴者でなくても権威に弱い人はいますが、高学歴者はその傾向がより強いと私は感じました。

もしかすると、頭が良いがゆえに、”長いものには巻かれろ” といった打算が働くのかもしれません。ですが、それではまともな判断ができているとは言えないのです。

なんにせよ、彼らに足りないのは実体験だと私は感じました。高学歴者でも、それに気づいて実践を重視する人は、私が見たところ、ほんの数%しかいません。

これについては、学歴がない人でも同じです。結局は、知識を実践することで、より多くの情報を手に入れた人しか、本物の思考力を手にすることはできないのです。