以前、私が社会人大学院に行っていたころ、クラスメートにお医者さんが何人かいました。そのうちの一人が、非常に印象深い話をしていたことを覚えています。
彼は当時、50代半ばくらいで、それまで医師として何人もの患者さんの最期を看取ってきました。そして、これまで亡くなられた患者さんの9割は、同じ後悔の言葉を残したというのです。
後悔の9割は「もっと自分のしたいことをすればよかった」
亡くなる前の患者さんの9割が後悔することとは、
そのほとんどが「もっと自分のしたいことをすればよかった」という内容でした。
具体的には以下のような内容です。
「あのとき、○○に挑戦しておけばよかった」
「本当は○○をしたかった」
「もっと自分の思うように生きればよかった」
「若いとき、もっと思い切ったことをしておけばよかった」
言葉にこそ若干の違いはありますが、すべて意味は同じです。結局、誰もが自分のやりたいことをできていなかったのでしょう。
そのお医者さんは、そういった場面を目の当たりにするたび、「人生はどのように生きるべきか?」について考えさせられるそうです。
後悔の言葉を残す人たちの年齢としては、65~75歳くらいが最も多く、いわゆる団塊世代の割合が高いようでした。
彼らは高度経済成長期、バブル期と戦後日本の最もよい時代を謳歌した世代です。私が学生のころなどは、”猛烈サラリーマン”と呼ばれ、「24時間働けますか?」といったキャッチコピーまで流行しました。
今の若い人たちからすれば、苦労知らずのいい時代だったという印象があるかもしれません。
物質的な豊かさと引きかえに自由をなくした人たち
彼らの時代は給料が右肩上がりで増え続け、多くの会社で年に何回もボーナスが出ていたといいます。お金を借りるのも簡単で、バブル期などちょっと名の通った会社に勤めていれば、いくらでも借りられる状況だったようです。
今を生きる私たちからすると、信じられないような話です。しかし、いいことばかりではありません。団塊世代のサラリーマンたちは、それと引き換えに自由というものをなくしていたのです。
団塊世代の彼らが子供のころ、日本はまだ戦後間もない時期でした。戦争で何もかも壊された後だったので、今と違って本当に物がなく、みんな貧しかったと聞きます。
そういった状況でスタートしていますから、「まずは物質的に豊かになりたい」という思いが国民全体にあったのでしょう。彼らは寝る間も惜しんで働くようになります。
物やサービスがない時代ですから、とにかく長時間働くことが会社の売り上げに直結します。社員が頑張れば頑張るほど、売り上げもあがりますから、会社も社員の働きにこたえ、給料やボーナスをはずみました。
「男は外で働き、女は家庭を守る」といった価値観が定着したのも、この時です。そのため、男たちは会社に滅私奉公し、ほとんど家に帰らない人もいたようです。
男たちが働くほど、経済的には豊かになっていきますが、それは同時に別の弊害をたらすことにもなります。彼らの多くは、家庭をおろそかにしてしまったのです。
社会的地位の高い人ほど寂しい最後を迎える傾向
最初の医師の話に戻りますが、彼はこのような話もしていました。
「社会的地位の高い人ほど、寂しい最後になる傾向がある」
どういうことかというと、亡くなる間際だというのに、誰もお見舞いに来ない。来ないのが他人ならまだしも、奥さんや子供すら来ない。そんな人がときどいきるというのです。
そして、本人が亡くなってから、身内がぞろぞろとやってきて、死を悲しむより遺産相続の話ばかりしていると。
彼は、遺族にたいして憤りを感じると同時に、亡くなった患者さんに対しても、「これまで、どんな生き方をしてきたんだろう?」と複雑な心境になったようです。
どういうわけか、「会社社長や大企業役員など、社会的地位の高い人ほどそのようになる傾向がある」と彼は言います。
彼の話を聞いて私が感じたことは、「結局、その人が成功したかどうかは、死ぬ直前にならないとわからない」ということです。
いくらお金や社会的地位があったとしても、自分が死んだとき、誰も悲しんでくれないようでは、人生に成功したとは言えないでしょう。誰も悲しんでくれないということは、すなわち誰からも愛されていないということです。
たしかに、団塊の世代の人たちの生きてきた時代は、「男は家庭より仕事が大事」といった雰囲気が強かったようです。社会全体がそのような風潮だったので、ほとんどの人はその風潮に逆らえなかったのかもしれません。
「本当はそこまでしたくなかったけど、流されてしまった」そう考えると、彼らも時代の犠牲者だったといえます。
団塊世代の人たちが偉かったと思うこと
団塊世代はなにかあればやり玉に挙げられます。とくに若い人たちから嫌われている世代でもあります。かくいう私も、団塊世代に対してはあまりよいイメージがありません。
これまでの職場で、何度も団塊世代の人たちとは衝突してきました。とにかく頭が固くて融通の利かない人が多かったのです。とはいえ、中には話のわかる人もいますし、好きな人もいることはつけ加えておきます。
そんな団塊世代の人たちですが、彼らが最も偉かったと思うことを書いて終わりたいと思います。べつに彼らを擁護するつもりはありません。あくまで私個人が感じたことです。
私が団塊世代の人たちについて、最も偉かったと思うこと、それは「家族の衣・食・住を長年にわたって保証してきたこと」です。
私が感じる団塊世代の最大の偉業はこれだと思います。彼らは、会社にすべてを捧げ、家庭をおろそかにしてしまったがために、中には奥さんや子供に嫌われた人もいたでしょう。
仕事ばかりに没頭しすぎて、家族とうまくコミュニケーションが取れなくなった人もたくさんいたようです。そうして、家族から疎まれながらも、彼らの多くは家族の生活を守り、家を買い、子供を大学に行かせたのです。
彼らの生きた時代というのは、今とは比較にならないほど、パワハラが酷い時代でもありました。会社でも普通に直接的な暴力すらあったといいます。そんな環境で強いストレスを抱えて疲れ果て、自分の頑張りとは裏腹に家族の心が離れていった人もいるはずです。
そんな中でも、彼らは何十年もの長きにわたり、耐え続けて家族の生活を守ったのです。これを偉業と言わずしてなんというのでしょうか。
もちろん、彼らは物質的、金銭的にはいい思いをすることもあったでしょう。中には、家族の生活を保障せず、遊び呆けた人もいるとは思います。ですが、ほとんどの団塊世代の人たちは、真面目に働いて、家族の生活を保障し続けたことは、まぎれもない事実なのです。
冒頭にあるように、そんな彼らの何割かは死に際して、後悔の言葉を残します。
誰にも看取られず、寂しい最期を送る人もいます。それでも、家族の生活を長年保障してきたのなら、その部分についてだけは称賛されてもいいのではないでしょうか? 少なくとも私は、そのように思うのです。
今の時代を生きる私たちは、団塊世代とは状況がまったく違います。厳しい社会環境が続いてはいるとはいえ、私たちに団塊世代の人たちよりも自由があることは間違いありません。
30~40年前にくらべ、人生の選択肢は比較にならないほど増えています。なんだかんだで私たちは、彼らより自由に生きることが許されているのです。
ならば、私たちはその自由を活用して、もっと人生を楽しむことを考えるべきではないでしょうか。自分の最期のときを迎えて、後悔の言葉を残さないために。