あなたは「常識とはなんだろう?」と考えたことがあるでしょうか?
恐らく、考えたことがないのではないでしょうか? 常識といえば、社会人なら誰もが知って当然のことだと思われています。しかし、この常識というものが本当に正しいのか、そのときの状況にとって妥当なのか、と考える人はあまりいないようです。自分の勤めている会社や業界など、ごく一部の狭い範囲で使われる常識などは、どう考えてもおかしいものも少なくありません。
今回は、常識とは何なのか?、なぜ多くの人がこれほど常識に囚われているのか?、そして常識とはどうつき合うべきなのかについて考えてみます。
常識とは社会秩序を保つためのガイドライン
そもそも常識とは何なのか? なぜ存在するのか? について考えてみます。私はこれまで20年以上社会を見て感じたことがあります。それは、常識とは社会秩序を保つためのガイドラインだということです。ガイドラインというのは、かんたんに言えば、人の考えや行動について、おおよその進むべき道を示すものです。法律とは違いますから、法的な拘束力や強制力もありません。そのため、常識とは普通に考えれば絶対的に守らないといけないものではないのです。
にも関わらず、常識を絶対的なルールのように考えている人はかなりの割合で存在します。なぜこのようなことになるのでしょうか?
判断力のない人は常識に従うことで社会生活が保証される
私が社会に出て感じたことは他にもあります。それは、本物の判断力がある人はほんの一握りしかいないという現実です。ほとんどの人は、常識や会社のルールに従って物事を判断しているだけで、本当の意味で自己判断をしていません。それどころか、善悪の判断すらできない人もたくさんいるのです。
そうした人たちが、まともに社会生活を送るためには、法律や常識のようなガイドラインが必要です。自分で物事を考えなくても、とりあえずそれに従えば、普通の社会生活は送ることができるからです。そういう意味では、常識は社会にとって必要不可欠なものであるといえるでしょう。
常識人ほど不幸せ
しかし、常識にばかり従って生きている人ほど、頻繁に不満を口にしています。当然です。どこの誰が決めたかわからない常識に従って生きたところで、自分の望む人生など送ることはできないからです。
人が自由に生きるためには、自分で考え、物事を判断し、行動する。そして、自分の判断や行動の結果に責任を持つというプロセスが必要です。常識的な人たちは、自分で物事の判断をしようとしませんし、責任も取りたがらない傾向が強いのです。だから常識に従って生きていくしかなくなるのです。
とくに会社組織では、その会社特有の意味不明な常識が存在することがあります。仕事がなくても他の人に合わせて残業しなければならないとか、上司の引っ越しは必ず手伝いにいかなければならないとか、宴会では何番目に誰が座るとか、そういった細かいものまで様々です。
社会の様々なルールに加え、そんな細かい常識まで守らないといけないとなると、人生が面白くなるはずがありません。これは自分で物事を考えず、判断せず、責任を取らないことの代償でもあります。
責任を取ることは、ときに痛みを伴いますが、その痛みを受け入れないと自由は手に入らないのです。世の中のほとんどの人は、その痛みを感じるのが嫌だから、常識に従い不自由な人生を送っているのです。
今の常識は大半が前時代の常識
常識人が不幸せな理由は他にもあります。今の世の中の常識のほとんどが前時代の常識だからです。前時代とは、自分の親たちの世代の常識だということです。時代が大きく変わったのに、常識は以前のまま。そのギャップが大きいほど人はストレスを感じるのです。
今、日本の社会も大きく変わろうとしていますが、社会の変化には10年単位の時間が必要です。日本が新しい時代に完全に切り替わるまで、まだ20年くらいはかかるでしょう。時代の転換期に生きている私たちは、前時代の古い常識が根強く残っている社会を生きなければならないため、古い時代の常識と新しい時代の常識の狭間で苦しむことになるのです。このような時代に生まれてしまった以上、これはもう仕方がないと諦めるより他ありません。
新しい時代の常識は私たちがつくる
「では私たちに手は無いのか?」といえば、そんなことはないのです。自分の気持ちに素直になって、常識の一つ一つを自分の責任で判断していけばいいのです。まず、その常識に従わないことで、発生するデメリットは何かを考えます。次にデメリットと自分の気持ちを天秤にかけ、痛みをともなっても自分がしたくないなら、勇気を持ってそれを実行すればいいのです。
もちろん、犯罪行為になるようなことはしてはいけませんが、世の中の常識を破ったところで、それが犯罪行為になることは少ないはずです。ほとんどの場合、それは自分の周囲にいる一部の人たちの気分を害するだけ、といった些細なことしか起こらないでしょう。終身雇用も完全に崩壊したと言われる昨今、会社の上司の機嫌を少々害したところで、大したことにはなりません。お金をもらう以上、仕事は真面目にしなければなりませんが、プライベートまで拘束されるような付き合いに参加する必要もないのです。
近頃、世間ではテレビや週刊誌がこぞって有名人の不倫をネタにしていますが、あれも当人同士の問題で、本来は部外者が口出しすることではないのです。批判する人たちは、「そんなの常識だ!」といいますが、不倫する彼らにも人に言えない事情があることも少なくないのです。そういった背景を知らず、マスコミの垂れ流す情報を鵜呑みにし、ただ常識から外れているから悪だと批判するのは筋違いだと私は思います。とはいえ、アレは報道する側が必要以上に煽っているという問題もあるのですが・・・
江戸時代までは大名たちに正妻のほか、側室が何人かいるのは普通のことでした。戦前でも、ほとんどの政治家は正妻のほか、妾がいるのが当たり前だったのです。それでも彼らが現代のように批判されることはありませんでした。時代が変われば常識も変わる。これからの時代は、当たり前だと思っていることほど疑わないといけません。「これまでは当たり前だったけど、これからは違うかもしれない」そうした前向きの疑いを持つことが大切なのです。
同時に、「その常識に従って自分は幸せなのか」についても考えなければなりません。日本もバブル期くらいまでは、とにかく我慢して一つの会社に勤め続けることで生活が保障されました。私たちの親の世代までは、そうして物質的な豊かさを手に入れることが幸せの条件だったのです。そのため、多くの人が我慢し続けて物質的な豊かさを手に入れたのです。しかし、そんな時代はもう終わりました。今の時代は物質的な豊かさが十分にあります。私たちは自分の親たちのように、我慢ばかりする人生を歩む必要はなくなったのです。
もう少しワガママになって自分の本心に目を向けましょう。新しい時代の常識を作るのは、今を生きる私たちなのです。自分の子や孫たちが、楽しく生きられるため、いい常識を私たちが作っていかなければならないのです。