従順な人ほど価値を失う時代

私たちはこれまで、常に誰かに従うことを強制されてきました。強制というと、ちょっと言い過ぎと感じるかもしれません。しかし、家庭では親、学校では先生、部活動では先輩、会社の中では上司、の言うことをききなさいと教えられてきたはずです。

家庭などの集団、会社などの組織では、目上の者の言うことをきかないといけない状況はたしかにあります。それはある意味で仕方のないことだとは思います。ただ問題なのは、幼いころからそう言い聞かされて育った人の中には、盲目的に人に従うことが習慣になっている人が多いということです。

9割以上の仕事は自動機械で代替えできる時代

これまでの日本社会では、何も考えず上役に従っていた方が組織の中では出世できました。大量生産・大量消費が前提の工業中心の時代では、とにかく上からの指示を文句も言わずやることが利益に繋がったからです。ところが、ここ10年ほど前からその流れが一気に変わってきます。

技術の進歩にともない、それまで人間がしていた作業のかなりの部分を、自動機械で代替えできるようになったのです。私自身、自動化ラインの工場を何ヶ所も経験していますが、「こんなことまで自動でやれるのか!?」と驚くほど、現代の自動化技術は進んでいるのです。それは、「もう大量生産の工場では人間は必要ないのではないか?」と思えるほどのレベルです。

もちろん、今でも人間が作業をしている部分も存在します。その多くはアルバイトやパート、契約社員の人たちが担っています。これは、自動化できないのではなくて、自動化機械を導入するコストより、アルバイトやパートの人件費が安いことが理由です。そのため、入ってから数日でできるようになる作業がほとんどです。これでは、現場で働く人の賃金は上がりません。

今の世の中の工場の大半は、9割以上の業務が自動機械に代替えできるのです。実際、某大手自動車メーカーの社長はこう言っています。「すべてのラインは100%自動化することがすでに可能だ」と。なぜそれをしないのかといえば、国内に大量の失業者がでるからです。だから、いまだに非効率な部分を残さざるをえないのです。

それが大企業の工場であればあるほど、社会に対するインパクトは大きくなります。当然、政府からも雇用を維持する依頼があったでしょう。そうはいっても、何の見返りもなしに大企業が政府からの依頼を飲むわけがありません。代わりに様々な優遇措置を受けることで、雇用を維持するという約束になっているのです。

従順な人はなぜ価値が低下するのか

では、工業時代では重宝された従順な人の価値が、なぜ今になって低下しているのでしょうか? これには先に説明した、自動機械の発達があります。自動機械の技術がまだ未熟な時代では、機械の代わりに単純作業をこなす人材が大量に必要だったのです。

そのため、学校教育もただ教えられたことを暗記し問題を解けばいい、目上の言うことをきけばいい、という方針に国もせざるをえなかったのでしょう。その結果、何も考えず人のいうことを聞く人材が大量生産されていったのです。

需要と供給の関係でいえば、今の時代、すでに何も考えず人のいうことを聞くだけの人材は過剰供給になっています。そうなれば、必然的にそうした人たちの価値は低下します。それが、今現在に起こっていることなのです。

従順な人では新しいやり方を見つけることはできない

時代はすでに量から質の時代に変わってきています。あらゆる業界が飽和状態であり、これまで通りに業務をこなしただけでは利益が上がらなくなっています。従来と同じやり方が通用しないということは、着眼点を変え、新しい仕事のやり方を自分たちで模索しないといけないということです。

ところが、従順な人というのは、新しいやり方を模索することができません。それまで人から教わったこと、教科書に書かれていたことを、ただ忠実に再現することが正しいと刷り込まれているからです。表現を変えるなら、彼らは他人から言われたとおりのことしかできないのです。

長年、人につき従うことで、自分の立ち位置を守ってきた人は、自分というものが非常に希薄になっています。物事を考えるというのは、突き詰めれば自分の考えがあるかどうかという部分にいきつきます。その自分が希薄だと、本当に物事を考える力は育たないのです。

「守・破・離」という言葉を知っている人もいるでしょう。これは一般的には、次のように定義されています。

:教えを忠実に守り基礎を固める
:基礎に自分なりの考えや経験を加え、改善・改良することができる
:それまでにない新しいやり方を創り出すことができるようになる

従順な人というのは、いうなれば、この「守」の部分しかできない人なのです。これからの時代は、最低でも「破」の能力はないと、平均的な生活を送ることすら難しくなるでしょう。

無条件に従うことはやめよう

かといって、会社などの組織では、依然として上役に従わなければならないことはあります。そういったときは、自分なりに「これは仕方がないことなのか」、「それとも従わなくてもいいことなのか」について、一つ一つ考えなくてはなりません。

ただ、何も考えずに「上から言われたからやる」という姿勢では、考える力はつかないからです。だからまずは、「これは本当にすべきことなのか?」と疑問を持たないといけないのです。

ここで注意しなければいけないのは、自分が疑問を持って上司に進言したとき、その上司にまったく改善する意思がない場合です。恐らく、ほとんどの会社では、上司に進言しても改善されることはないでしょう。いまだ、前時代の価値観に支配されている会社組織は多いからです。

そんなときは、衝突したところでお互いにメリットはないので流すしかありません。ただし、自分の意見はだけは捨てずに、ハッキリと持っておく必要があります。ときが経てば、自分の意見が通るときが訪れるかもしれませんし、自分で起業したとき、自分の考えが活かせるかもしれないからです。

とにかく、自分がおかしいと思ったのなら、その自分の考えだけは絶対に捨ててはいけません。誰かに従うにしても、それはそのときの状況で「そうしなければならないだけだ」と割り切ればいいのです。誰かがそうしろと言ったから、それが正しいんだと無条件に思い込むことがいけないのです。

それはすなわち、誰かに盲従していることであり、自分自身を捨てるという行為だからです。自分を捨てるということは、思考停止していることと同じです。

自分の意思をしっかりと持とう

これからの時代、他人に追従したところで、これまでの時代ほどメリットはありません。それなら、自分の意思をしっかりと持ち、自分の考えで人生を送るほうが、生きるのも楽しくなるというものです。

自分の意思がない人に、自分独自の考えが宿ることはありません。以前の記事、創造力とはなにか でも書いたように、結局のところ、創意工夫というものは、自分の考えがあるかどうかに帰結するのです。

まずは、自分の考えをしっかりと持つ。自分の考えがあれば、他人の考えと食い違いが生じ、そこに疑問が生まれます。その疑問が創意工夫の起爆剤になるのです。疑問のないところに改善・改良はありません。そして、改善・改良のないところに創造もないのです。

先に挙げた「守・破・離」を思い出してみましょう。「離」の前に「破」があるでしょう。これは、自分なりの工夫(改善・改良)ができるようになって、初めて「離」に到達できるという意味なのです。もう少しわかりやすく説明するなら、自分なりに改善・改良を加えていくことで、応用力が強化され、高い応用力がまったく新しいものを生み出す創造力になるということです。

繰り返しますが、これからは完全に質の時代に移行します。質の時代では、創意工夫がこれまで以上に必要になるのです。そして、創意工夫の原点にあるのが自分の意思なのです。自分の価値を本当に高めたいのなら、他人に盲従することはやめましょう。自分の意思をしっかりと持ち、自分の考えで人生を渡っていける人しか、生き残っていけない時代になってきたのです。