人間関係は現場でしか学べない

今の時代には情報が溢れかえっています。人の心理に関する情報も書籍、ネットなどいくらでも見つかります。

にもかかわらず、人間関係に悩む人は後を絶ちません。これだけ膨大な情報がありながら、どうして人間関係に悩むのでしょうか?

それは結局、人間関係は現場でしか学べないということにつきます。

今の時代の人たちは、豊富な情報がありすぎるがゆえに、自分で考えるより先にネットで答えを探そうとします。

ネットや本の情報でまず知識を取り入れ、それを他人に当てはめて相手をかわったような気になっているのです。

しかし、それではいつまで経っても人間関係の悩みからは解放されないでしょう。人間とは、たかがネットや本の情報ですべてを判断できるほど、単純ではないのです。

心理学を学んでも人間はわからない

今から10年ほど前でしょうか。心理学が流行って、その手の本を頻繁に書店で見かけた時期がありました。そのとき、私の周囲にも、心理学にハマっている人が何人かいたことを覚えています。

中でも、慶応大卒の知人は猛烈な勢いで心理学の本を読み、かなりの量の知識を身につけていました。

ですが、彼はその後も人間関係に悩み続けています。他の心理学にハマっていた友人たちも、皆そろってそれまでの生活に変化はありませんでした。

結局、彼らは心理学の知識を学んで、それを人に当てはめることで、物事が解決すると考えていたようです。ところが、実際に心理学の知識を学んで、思った通りに事が運んだという人を私は知りません。

そもそも、心理学というのは応用ができなければ使い物にならないのです。本に書いている内容を、その場の状況や相手の心理もわきまえず、そのまま使っても思い通りになることはないのです。

まずは、色んなタイプの人とそれなりに深い付き合いをして、その人のタイプを自分で見極める力をつけなければなりません。

生の人間関係という現場で場数を踏む必要があるのです。それをせず知識に頼ったところで、うまくいくわけがないのです。

言葉だけで相手を判断すると見誤る

とくに、勉強が好きな秀才タイプの人によく見られるのが、相手の言葉だけで人間を判断することです。

実際には、相手の言葉だけで判断をしてはいないのでしょうが、私がみたところ、知識豊富な秀才タイプほど、人を判断するときに言葉のウエイトが大きいように感じました。

しかし、そういう人ほど、人間の表面しか見えていないように思います。「言葉は人格を表す」といわれますが、私はこの言葉を鵜呑みにしてはいけないと考えています。

たしかに、言葉である程度、相手を判断できる部分はあるでしょう。ですが、言葉だけを頼りにして人間を判断すると、間違いなく相手を見誤るのです。

高学歴でも詐欺師に騙される

たとえば、プロの詐欺師ほど言葉に気をつけているという話があります。彼らは美辞麗句を並べ、誰もが心地よい言葉を巧みに操ります。

言葉だけで判断すれば、彼らは紛れもない人格者なのでしょう。ところが実際、彼らの腹の中は、人から金を騙し取ろうという魂胆でいっぱいなのです。

ここ10年ほど前から、団塊世代の定年が始まりました。

彼らの何割かは、有名大学を卒業し、大手企業に勤めあげ、高額の退職金を受け取りました。そのうち何人かは、詐欺師に退職金をだまし取られ、一文無しになっているといいます。

これまで、私の周囲でも何回かそういう話を聞いたことがあります。中には、医者や大学の教授もいたようです。近所の人たちは、「あんな頭のええ人でも騙されるんやなぁ~」と不思議がっていました。

私は騙されたときの状況についても、少しは聞いたことがありますが、「それ、怪しいと思わなかったのか?」と感じることがありました。

恐らく、騙された人たちは、閉ざされた狭い人間関係の中で長年生活してきたため、自分の予想外の人間が現れると思わなかったのでしょう。

どちらかといえば、無学歴で小さな会社経営をしているような人の方が、そこのところの判断はできる人が多いように思います。「ああ、その話ウチにも来たけど断ったよ。そんなうまい話あるわけないやろ」といった感じなのです。

そういった人たちは、若いころは散々、誰かに騙されたり裏切られたりしたようです。長年、多様な人間関係の現場で揉まれているのでしょう。

何度も人間関係で痛めつけられているから、本当に人を見る目が養われているのです。

彼らは言葉だけで決して人を判断しません。その人の仕草や雰囲気、その後の行動を逐一チェックしているのです。だから言葉だけに惑わされることがないのです。

このような選定眼は、決して本などの文字情報だけで学ぶことはできません。生の人間関係で学んでいくしかないのです。

言葉を判断するときは込められた感情や想いに着目する

言葉というのは、言葉そのものよりも、込められた感情や想いのほうが重要です。たとえば、乱暴な言葉で何かに怒っている人がいたとします。

乱暴な言葉を使う人は、誤解されやすいのですが、その人が乱暴な言葉を使って怒っている理由は何なのか、どのような想いが込められているのか、といったことを考えなければなりません。

そこを考えずに、「アイツは乱暴な言葉を使っているから悪い人間だ」と判断するのは間違いのもとです。

私自身の経験からも、当たり障りのない綺麗事ばかり言う人より、多少は乱暴な言葉を使うような人の方が、最終的には信用できる人が多かったです。

乱暴な言葉を使う人のほとんどは、そんな言葉を使えば自分が誤解されることは十分にわかっているのです。たとえ人に誤解されても、怒りを出して意思表示をするという覚悟を持っているのです。

反対に、綺麗事ばかり並べる人というのは、自己保身の気持ちが強い人、相手を利用しようとする人が多かった印象があります。

ただ、言葉に込められた感情や想いを理解するには、まず自分を知らなければなりませんし、色んなタイプの人ともつき合ってみなければわかるようにはなりません。

そうなると、ときには嫌な想いをすることもあるでしょう、傷つくこともあるでしょう、苦しいことではありますが、そこを何度も経験しないと、他人とのいい距離感をつかめるようにはならないのです。

他人との距離感をつかめるようになれば、人間関係でさほど苦労することはなくなります。相手の反応を見て、離れるか近づくかの判断ができるようになってくるからです。

人間関係とは、自分で嫌な思いや楽しい思いをしながら学んでいくものなのです。