知識は使ってこそ意味がある

あなたは知識についてどのように考えているでしょうか?

今の社会では、知識という名の情報が私たちの周囲に洪水のように溢れています。これらの膨大な情報を使って結果を出す人、それでも結果を出せない人。

両者の違いは知識というものに向き合う姿勢にあります。

知識とは本来目的を達成するための手段である

私たちの多くは、いまだに知識を知っていることが重要だと考えているように思います。たしかに、知識は無いよりあったほうがいいのですが、実は知識は使わないと意味がないのです。

そもそも、知識というのは目的を達成するための手段として用いられてきました。

自分の目的を達成するために、人は知識を求め、知識を実行することで新たな情報が手に入る。知識の取得と実行、この2つを繰り返すことで、人は自分の目的に近づいていくことができたのです。

ところが、日本では、いつの間にか知識を得ることだけが目的化した人が増えてしまったようです。恐らく、テスト中心の学校教育のせいでしょう。テストは知っていれば高得点をとることができます。

テストで高得点を取り、いい大学にいけば、いい会社に入れる。そこに価値があると多くの人が錯覚してしまったのです。

たしかに、いい大学、いい会社に入ることを目的とするなら、これまでの時代は知っているだけでも価値があったといえるかもしれません。

しかし、いざ社会に出てみると、知識があっても結果を出せる人、結果が出せない人に明暗がわかれます。これは、実際に知識を使えるかどうかの違いです。

結果が出せる人というのは、目的を達成するための手段として知識を求めます。反対に、結果が出せない人というのは、知ることだけが目的となっているのです。

知識の取得で止まっているのですから、知識の使い方がおろそかになるのは無理もないことです。

長年のテスト重視教育で、知識本来の意味がわからなくなってしまったのでしょう。このような人は、個人の結果をより求められるこれからの時代において、大変苦労することになります。

知識は実際に使うことでしか身につかない

私たちは、知識という情報を文字や言葉で手に入れることができます。文字情報は、言葉の意味を知っていれば理解できますが、それは表面的な理解でしかないのです。

物事を本当に理解するというのは、やはり実際にやってみないとわかりません。自分でやってみることで、言葉の意味以上の情報を手に入れることができるのです。

どんなに文章が巧い人でも、自分の経験の全てを文字だけで表現することはできません。

れは言葉でも同じことです。文章を書いた人が伝えたいことを、ただ読んだだけ、聞いただけで理解できたと考えるのは間違いのもとです。

実際に自分が体験するから、文章を書いた人が伝えたい文字以外の意味まで理解することが可能になります。これが、本当に知識が身につくということなのです。

たとえば、何かのスポーツの本に、ある動作をしたとき、「ふわっと身体が浮くような感覚が得られることがある」と書かれていたとしましょう。

こうしたことは、ただ文章を読むだけでは絶対にわかりません。

実際に何度も自分で試してみて、あるとき本当に自分の身体がふわっと浮くような感覚が得られたとき、著者が伝えたい情報を本当に理解できたことになります。

そして、あなたがその動作を何度も練習し、毎回同じ感覚が得られるようなったとき、その知識は本当の意味であなたのものとなるのです。

最低な知識の使い方

最期に、日本のサラリーマン社会でよく見られる、最低な知識の使い方について書いてみます。これは本当にどこの職場でもよく見かけることなので、警鐘の意味も込め書いておきます。

なにかといえば、部下や同僚に知識をひけらかしてバカにしたり、あるいは他人を抑えつける手段として知識を用いることです。こういうことをする人の決まり文句は「そんなことも知らないの?」です。

こういうことに知識を使う人というのは、まず実力がないと考えて間違いありません。世間知らずなのです。

世の中には、自分の知らないことなどいくらでもあります。

自分の知っていることだけを持ち上げ、他人が知らなければバカにするというのは、それ自体、自らの無知をさらけ出している行為にほかなりません。

彼らは、こちらが知っていて自分が知らないことを言われ、バカにされたらどんな気がするのでしょうか?

その程度の想像力すらない彼らの方にこそ問題があるのです。

知識というのは、実践し発展させるために使うべきものであって、他人を貶める行為に使うものではありません。

知識とは、先人の英知と言ってもいいでしょう。

先人たちは、自分が到達できなかった領域への踏み台として、自らの経験を後世に残しているのです。それは、未来の発展を思えばこそ。

それを他人を貶める手段に使うなど、先人たちへの冒涜でしかありません。知識は他人を攻撃する武器ではなく、私たちの発展のために使うものなのです。