受験秀才が陥りやすい条件付けの罠

私はこれまで、あるときは技術系の派遣社員として、またあるときは正社員として、何社か大企業での勤務を経験してきました。

一般的に、日本の大企業や有名企業の社員は、中堅以上の大学を卒業している人の割合が高くなっています。ですから、世間一般には頭のいい人たちしか入れないという認識があると思います。

私は人間観察が趣味のようなものなので、彼らの行動や言動をよく観察していました。そこで「彼らの多くは無意識のうちに条件付けをされているのではないか?」と感じることがよくありました。

今回は、私が大企業で見た、学歴のある人たちが陥りやすい思考のクセについて考えてみます。

何にでも決まりきった正解があるという思い込み

条件付けというのは、ある物事に対して「これはこうだ!」と無条件に反応するように習慣づけられたことをいいます。白といえば黒、右といえば左と言わなければならない。そういった反応のことです。

世間では、いわゆる高学歴と言われる人たちを見て、私はしばしばこれと同じ状態に陥っていると感じることがあります。

彼らはたしかに優秀だと思います。情報を処理する時間も早いですし、記憶している知識も私たち一般人とは比べものになりません。

ですが、ありあまる知識があるがゆえに、ただ記憶した知識を目の前の事象に当てはめるという行為が目に付くのです。

テスト重視教育による刷り込み

これは幼いころからの、テスト重視教育の影響でしょう。

私たちは、小学校のころからテストを定期的に受けなければなりません。中学生以降は、さらにテストを受ける頻度が増えます。表向きテストの目的は、「学習の理解度を確認するため」となっています。

それも一理あるでしょうが、「テストの目的は本当にそれだけなのだろうか?」と疑問に思います。

私も学生時代は、テストで正解すると、その知識の内容が正解だと思っていました。ところが、実社会に出てみると、学校で習ったこと、本に書かれていること、人から聞いた話、それらの全てが必ずしも真実ではないということに気づいたのです。

私は家庭環境が悪かったこともあり、性格がひねくれていました。そのため、小学校のころから大人の言うことを何でも疑うクセがついていたのです。しかし、家庭環境が比較的よく、優等生の子供たちは、大人の言っていることを疑うということがほとんどありません。

通常、テストでいい点を取れば、親や先生から褒められます。いい大学に行けます。大学を卒業すれば、それなりにいい会社に入ることができるでしょう。彼らにとって、そうしたインセンティブは、すべてテストでいい点を取った結果得られたものです。

そうなると、本人たちは過去の成功体験もあいまって、テストのように知識を正解に当てはめることが正しいのだと完全に思い込むようになります。それも無意識のうちに。

なんでもレッテル貼りしようとする秀才たち

そのように条件付けをされた人たちは、固定観念が強くなります。その結果、どんなことでも決まった型にはめようとするのです。これがいわゆるレッテル貼りです。

そのレッテル貼りは人間関係にも及びます。一度何かをしただけで、「コイツはこういうやつだ」という決めつけをするようになるのです。このような人は、今の大企業の部課長クラスでもかなりの割合でいます。

彼らは一度レッテル貼りをすると、その人の人間性をそこで完全に固定してしまいます。そして、以後も固定された自分のイメージでしか相手を見ようとしなくなります。

だから、大企業などでは、みんな上司の顔色をうかがい、自分の悪い部分を微塵も見せないように努力するのです。上司から一度悪いレッテルを貼られると、自分の評価や出世に響くからです。

人は変わるという前提を排除すると本質を見誤る

しかし、人間というのは変化するものです。たしかに、中には変化しようとしない人もいますが、ときが経つことで変化する人は確実に存在します。すぐにレッテル貼りをする人は、この変化できる人のことを理解できません。

人間というのは、狭い枠にはめられるほど単純な生き物ではないのです。ところが、レッテル貼りは、人が変わるという可能性を完全に排除します。それは、相手の本質を見誤ることにしかなりません。

彼らは固定された型に相手をはめることで、相手の本質が見えなくなることがわかっていません。実は、これは非常に危険なことです。ある意味、油断しているということにもなるでしょう。

油断は相手の力量を見誤らせ、分析に誤った結果をもたらします。そして、予想外の結果を相手が出したとき、慌てるしかなくなるのです。

基本的に、どんな物事でも可能性を完全に排除してはいけません。それがたとえ、どんなバカバカしいことであったとしてもです。自分が確認できないことなら、どんなことでも可能性がゼロとは言い切れないのです。

可能性を排除しないと、思考に柔軟性がでてきます。柔軟な考え方ができると、臨機応変な対応が可能になります。それは、これからの時代において、必須の能力になるのです。

条件付けの罠から抜け出した人が天才と呼ばれる

私の感覚だと、日本の大学生の8割以上は、この条件付けの罠にはまっていると感じます。そのせいで、日本の優秀な人たちは自分の能力を完全に活かせていません。

せっかく優秀な能力を持っていながら、これは非常にもったいないことです。私からすれば、社会に出た時点で羨ましいくらいのハイスペックなのに、まったく自分の能力の活かし方がわかっていないのです。

人の能力を活かすには、まず思考に柔軟性が必要です。次に行動すること。

人は行動する前、「○○だから、自分は行動しなければならない」と自ら動機付けをします。この動機付けには、思考するという作業が必要になります。

思考が柔軟であるということは、より多くの可能性を考えることができるということです。それは、自分が行動するための選択肢を増やすことになるのです。

同じ物事でも、1つのアプローチより2つ、3つと複数の方法でアプローチしたほうが成功率が高くなります。それはつまり、自分の目的を達成しやすいということです。

しかし、すぐ固定された枠に物事を当てはめる人というのは、行動するための選択肢も狭い枠に固定されてしまいます。その結果、自分の目的が達成できないという悪循環に陥るのです。

多くの目的が達成できる人は、その経験からさらに新しい情報を得て、次々と物事へのアプローチを増やすことができます。そうして、自分の経験値を高めることができるのです。

そのような人は、他人からすると「なんでアイツはあんなに色々なことを思いつけるんだ?」と不思議がられるでしょう。それを世間では天才と呼びます。

ところが今の日本は、学校教育、社会構造ともに天才を潰しやすい構造になっています。

「これは、こうしないといけない」「ああしないといけない」と、とにかく無用なルールが多すぎるのです。同時に、それを守らせるための同調圧力も強くなっています。それが人々の固定観念を強くし、条件付けとなって、私たちの思考に制限をかけているのです。

ですから、あなたが自分の能力を活かしたいと考えているのなら、まずはそこに気づくことが大切です。会社勤めの人なら、会社の中でルールは守るけど、そのルールに自分の考えや行動が縛られていないか確認してみましょう。

すぐにレッテル貼りをしていないか、他の可能性を排除していないか、についても自分に問いただしてみることです。自分を客観的に見つめ、自分の思考をチェックしていくことで、次第に条件付けの罠が外れていきます。

それができれば、今の秀才たちは皆、天才と呼ばれるようになるでしょう。もちろん、学歴のない人たちも。