同調圧力に屈すると個性を失う

日本の社会は同調圧力が強いとよくいわれます。

同調圧力とは、わかりやすくいえば、「君も周囲の人たちに合わせろよ」という暗黙の了解です。ほとんどのケースでは、周囲の人たちがそれを直接口にすることはありません。

ですが、それに従わなければ裏で文句を言われたり、仲間外れにされたりすることもあります。職場であれば、当然仕事にも差し支えるので、ほとんどの人は泣く泣く周囲に合わせることになります。

日本の社会では、あらゆる組織でこの同調圧力を見ることができます。

同調圧力というのは、極めて狭い範囲の常識と言ってもいいかもしれません。その会社の中だけ、町内会の中だけ、PTAの中だけといった具合です。

私もこれまで、そういった同調圧力を感じることがよくありました。しかし、私は自分が嫌だと感じたものに関しては、周囲と一切同調はしてきませんでした。

短期的に考えれば、周囲と上手くやれるかもしれませんが、長期的に考えればデメリットの方が大きいと思ったからです。

日本社会にはびこる偽りの和

日本の会社では、よく「和」が大事といわれます。これは、聖徳太子の「和を以て貴しとなす」という言葉がもとになっているというのは想像に難しくありません。

ところが、今の日本社会では、この「和」というものが、本来の意味からかけ離れた意味で理解されているように思います。

私が以前、勤めた会社に、先輩が後輩を当然のように罵倒する文化の会社がありました。

そこでは、先輩からどんな酷い仕打ちを受けても我慢しなければならないのです。口答えなどしようものなら、周囲から集中攻撃を浴びます。

ある日、あまりに理不尽が過ぎると感じたので、私は言い返しました。

すると、「お前は社内の和を乱すのか!」とその先輩は激怒し、係長・課長、果ては役員までもが、全員で私を罵倒し始めたのです。「コイツは新参者のクセに偉そうだ」というわけです。

あまりの低レベルさに呆れた私は、「気に入らないのなら使ってもらわなくて結構です」といって、その会社を試用期間でさっさと辞めてしまいました。

これは本当に極端な例ですが、実際にそういう会社があったのです。こういう会社では、先輩からのいびりを受け入れることで、始めて仲間に入れてもらうことができるのです。

ですが、そんなものに合わせる必要が一体どこにあるのでしょうか?

こちらは何も悪いことをしてないのに、毎日何度も先輩から大声で罵られるのです。彼らは相手をこき下ろすことで、自分の優位性を確保したいのでしょう。

そんな低俗なやり方に、無理矢理に自分を合わせることが「和」とは、私には到底思えませんでした。

論語の有名な言葉に、
「君子は和して同せず、小人は同して和せず」というものがあります

先に私があげた例だと、「小人は同して和せず」の方でしょう。

こちらの人格は尊重されることなく、先輩や上司だけを一方的に尊重しなければならない。そのようなデタラメな和など聞いたことがありません。

自分の考えを持たず、無条件に人に同調することは「和」とはいわず、付和雷同というのです。

このように、今の日本には、この「和」と「付和雷同」をはき違えているケースがしばしば見受けられます。

同調圧力に屈服すると次第に自分を失っていく

そのほかにも、歴史ある大企業などでは、事務所でみんなが小声でコソコソと話していることがあります。私は声がよく通るので、そんなに大きな声で話していなくても周囲によく聞こえるようです。

そういう職場では、よく「声が大きい」と注意されることがありました。私からすると、私の声が大きいのではなく、周囲の声が小さすぎるのです。

べつに悪いこともしていない、仕事の話をしているのに、なぜそこまで小声で話さないといけないのでしょうか?

そういう職場では、みんながみんな周囲の目を気にしてコソコソとしています。

私は、そういうおかしな空気に合わせる必要はないと感じていたので、注意されても普通に話していました。当然、周囲からは白い目で見られます。

普通なら、周囲に合わせるのでしょうが、そのときも私は周囲に合わせることをしませんでした。

なぜなら、そういった些細なことまで周囲の目を気にし、いちいち合わせていたら、自分の持ち味がどんどんなくなっていくと感じていたからです。

そういう会社では、事務所の話し声だけでなく、その他にも数多くの同調圧力があります。それらどうでもいい細かいローカルルールに合わせることは、自分に制限をかけることと同じです。

一つ一つは些細なことかもしれませんが、それはいづれ自分の思考から行動まで、すべてを制限する鎖となっていきます。そして、それが習慣になってしまうと、自分の個性は完全に封印され、気がつけば、つまらない人間へと変わり果てているのです。

だから、些細な要求だと思ってバカにしてはいけないのです。少なくとも、自分の本心が嫌だと感じることには反発しなければなりません。

どうでもいい些細な要求だと思って呑んでいると、次第にその数が増えていき、最後には大きな要求まで呑んでしまうようになる。これは詐欺師がよく使う誘導、または新興宗教の洗脳に使われる手口と似ています。

つまり、個人の意思を奪う手法と同じ効果が働くということです。

同調圧力の強い組織では、一種の宗教性を帯びているためか、このように、自然と人を洗脳するような空気になっているところも少なくありません。

個性を失うことのデメリット

私が自分の個性を頑なに守るには理由があります。個性を失うことには、たくさんのデメリットがあるからです。その中でも、とくに重大なものを以下に挙げてみましょう。

 無駄なストレスが増えていく
 自分の意思がなくなる

 自由がなくなる
 人生がつまらなくなる

周囲の目ばかりを気にし、合わせていて最も嫌なのは余計なストレスが増えていくということです。自分が本心ではやりたくないと思っていることをするというのは、それ自体がストレスになります。

ましてや、あれはするな、これもするなと何にでも制限がかけられていると、思考の自由も行動の自由も思い込みによって次第に奪われていきます。

それに慣らされてしまうと、人は自由な発想を失い、周囲の環境に合わせることでしか生きられなくなってしまうのです。

そんな人生、一体何が楽しいのでしょうか?

派遣なり契約社員なりで、一度でも大企業で働いたことがある人なら気づいている人もいるでしょう。大企業の社員がみんな、つまらなさそうに下を向いて歩いていることを。20代、30代、40代と上にいくに従って、表情がなくなっていることを。

彼らはみんな、細かいルールばかりの会社の空気に慣らされ、自分を失っているのです。

そういう人たちは、会社から放り出されたら自分では何もできません。周囲に合わせ会社に居続ける代償として、個性を失ってしまったのです。

今後、大企業だけでなく中小零細企業でさえもリストラをすすめていくでしょう。自分がその当事者になったとき、個性のない人は落ちていくしかありません。

なぜなら、個性があるということが、自分の意思があるということであり、自分の意思こそが不透明な世の中を生き抜く力となるからです。

自分を捨て、会社に頼りきった人の変わりはいても、個性のある人の代わりはそうそういるものではありません。だからこそ、個性というものを捨ててはいけないのです。

これまでの時代は、周囲と同調することで身の安全が保証されました。しかし、これからは周囲と同調したところで、必ずしも身の安全が保証されるとは限らないのです。

どんなに同調したところで、リストラされるときはされるのです。それなら、万が一のときのために自分の個性を大事にしたほうがよくはないでしょうか?

コロナ発生以後、日本でもフリーランスが激増しているようです。もし、自分がフリーランスをしなければならない状況になったとき、最大の武器はその人の個性になります。

どんな職種であろうと、最終的に差別化できる要因は自分の個性の中にしかないからです。