すぐにエビデンスがないという人は思考停止している

もう10年くらい前からでしょうか? テレビやネットなどで頻繁に「○○的根拠がない」という言葉を耳にするようになりました。

以前は、科学的根拠がない、統計的根拠がない、医学的根拠がない、などと言われていました。近頃では「エビデンスがない」という言い方が一般的になっています。

エビデンスとは、もともと証拠や根拠という意味の英語です。

私は、以前から「○○的根拠がない」という言葉をあまり信用していませんでした。とくに、この言葉を頻繁に使う人ほど、実際には何も考えてないことが多かったからです。

エビデンスがないの一言で納得してはいけない

たとえば、有名なお医者さんが「医学的根拠がない」と言う。有名な弁護士さんが「法的根拠がない」と言う。有名な大学教授が「科学的根拠がない」と言う。

そんなとき、言っている人の権威もあいまって、その言葉には絶対的な説得力があると感じてしまうのものです。ほとんどの人は、そう言われると「○○的根拠がないなら、それは間違っているんだろう」と考えてしまいます。

しかし、本当の真実というのは、実際に自分で体験したり、調べたりしてみないとわからないものです。にも関わらず、多くの人たちは、自分で調べもせず「それは間違っている」と判断してしまうのです。

人は一度自分の中で答えを出してしまうと、それ以上考えることをしなくなります。○○的根拠がない、エビデンスがない、という言葉の一番の問題点はここにあります。

 

もし、あなたが実践を重視するタイプなら、次のようなことに気づいているはずです。

エビデンスがなくても、正しいことはある。
反対にエビデンスがあっても、実は間違っていることもある。
ここを知っている人たちは、エビデンスがないという言葉を無闇に信じたりはしません。

論文があればエビデンスがあることになるのか?

そもそも、多くの人たちが言うエビデンスとは一体何のことでしょうか?

ほとんどの場合、彼らがエビデンスとして使うのは論文です。国内外の有名大学のものであったり、研究機関のものであったりと、世界中の権威ある論文がエビデンスとして使われるのです。

これは、他人に答えを提示してもらっているということです。

自分で考えて答えを出さず、他人に答えを教えてもらっているのです。エビデンスがないと判断できないというのは、そういうことです。

日本でも、多くの知識人が、開口一番「こんな論文があって・・・」と他人の論文ベースで話を始める場面をよく見かけます。

他人の論をベースにしている時点で、その人には持論がないと私は判断します。実際、そういう人の話を聞いていると、最期まで自分の研究成果の話になりません。他人の論に終始しているのです。

これでは、近年の日本に優れた研究成果が少なくなっているのも当然です。

論文の性質を理解する

現代では、ネット環境さえあれば、世界中の論文に手軽にアクセスできます。そのため、多くの人が自分で考えることをせず、論文に答えを求めるようになってしまいました。

しかし、ここで論文というものの性質を、今一度考えてみなければなりません。

 20年後に正しいと判断される論文は1割程度しかない
 大学や研究機関では論文が評価対象になるところもあり玉石混交
 自論に都合のよい実験をすることがある
 自論に都合良く数字やデータを集めていることがある
 自分で実験せず他人の論を寄せ集めて論文が書かれていることがある

論文というのも、所詮はどこの誰ともわからない他人が書いたものです。人が書いたものである以上、そこには間違いや思い込みが入り込む余地があると考えるべきでしょう。

また、大学や研究機関などでは、論文を出すことが評価対象になっているところもあります。

出世や評価を気にする人が、大した実験もせず、論文を粗製濫造することは想像に難しくありません。論文を書く人が全員、真実の探求者であるとは限らないのです。

サラリーマンをしていると、客先に提出するデータを自社に都合よく改ざんしたり、自社に都合のよいデータだけを集めたりする場面を目にすることがあります。

最近では、目標管理制度を導入している会社もありますから、本当は成果があがっていないのに、成果があがっているように数字を水増しする社員もいるでしょう。

人間というのは、利害が絡むとそういう行動をする生き物なのです。世界中の研究者全員にその傾向がないとは、私には到底思えません。

実際、自社の製品を売るため、有名大学の教授に大金を払い、自社製品に有利な論文を書いてもらうことがあるのは有名な話です。

結局、本物のエビデンスとは自己体験にしかない

結局のところ、自分にとって本物のエビデンスとは、自分が体験したこと以外にはないということです。

ネット社会では、あらゆる情報が手軽に手に入りますから、信憑性のありそうな情報を見つけたら「これが証拠だ!」と言いたくなる気持ちはわかります。ですが、そうして安易に他人の論に頼っているうちは、本当に考える力はつかないのです。

たしかに、他人を説得するため、「エビデンスがない」という言い方はとても便利だと思います。そう言えば、相手も納得することが多いからです。

しかし、そういうことを言う人に限って、実はあまり調べていなかったりするものです。ですから、そのような言葉をよく使う人には注意しなければなりません。

先日、「差がつく情報との向き合い方」という記事を書きました。

この中にも書いているように、「すべての情報は参考するにとどめ、最終判断は自分でする」という姿勢がやはり重要だと思うのです。それが真実はどうかは、最終的には自分で判断するしかないからです。

今の世の中、他人が言っていることに答えを求めてしまうと、確実に騙され利用される側になってしまいます。それが嫌なら、他人の論に頼らず、自分で物事を判断できるようになるしかないのです。